丘陵にある中世の平山城跡 {高知市 ・歴史・完成}
浦戸城(うらとじょう)三層の天守を設け、本丸・二の丸・三の丸・出丸で構成されていた。丘陵北部の浦戸湾岸に城下町を置いた。
慶長4年(1599年)元親が死去し4男・盛親が家督を継ぐ。
翌年の慶長5年(1600年)、盛親は関ヶ原の戦いで石田三成方(西軍)に付いたが敗北し、長宗我部氏は改易された。
代わって山内一豊が土佐藩主となるが、一領具足と呼ばれる長宗我部旧臣の抵抗に遭い入国出来ず、10月19日、幕府の命を受けた井伊直政が家臣の鈴木平兵衛・松井武太夫を城の受けとりに赴かせたが、長宗我部氏の旧臣は「浦戸一揆」と呼ばれる50日間に及ぶ頑強な抵抗を行った。
結局、策謀によって鎮圧され、翌年の慶長6年(1601年)1月になってようやく一豊が入城した。
しかし、この地では手狭であると感じ、同年8月より高知城建設に着手。慶長8年(1603年)完成し移ったため浦戸城は廃城となった。
現在、遺構と呼ばれるものは殆どなく、本丸石垣の一部が僅かに残り、石碑が建っているのみである。
慶長4年(1599年)元親が死去し4男・盛親が家督を継ぐ。
翌年の慶長5年(1600年)、盛親は関ヶ原の戦いで石田三成方(西軍)に付いたが敗北し、長宗我部氏は改易された。
代わって山内一豊が土佐藩主となるが、一領具足と呼ばれる長宗我部旧臣の抵抗に遭い入国出来ず、10月19日、幕府の命を受けた井伊直政が家臣の鈴木平兵衛・松井武太夫を城の受けとりに赴かせたが、長宗我部氏の旧臣は「浦戸一揆」と呼ばれる50日間に及ぶ頑強な抵抗を行った。
結局、策謀によって鎮圧され、翌年の慶長6年(1601年)1月になってようやく一豊が入城した。
しかし、この地では手狭であると感じ、同年8月より高知城建設に着手。慶長8年(1603年)完成し移ったため浦戸城は廃城となった。
現在、遺構と呼ばれるものは殆どなく、本丸石垣の一部が僅かに残り、石碑が建っているのみである。
update:2009年09月24日
